【書評再録】石原慎太郎著『光より速きわれら』を読む

昭和51年(1976)4月、「三田文学」5月号に執筆した書評を再録する。富岡幸一郎氏との対談で触れた47年前の学生時代に書いた書評である。大学を中退する頃に書いたもので、その後、7月に株式会社ニューミュージック・マガジン社に入社、社会人としての生活を始めることになる。

→『「クライテリオン」石原慎太郎とは何者だったのか?――政治と文学。富岡幸一郎氏と徹底的に語る』はこちら(pdfファイル)


石原慎太郎著『光より速きわれら』を読む

西村幸祐

石原氏の久し振りの長編小説である。全体が四章から成り、「甘い毒」「天体」「饗 宴」「舞踏」の各章が二年以上の間に渡って断続的に発表された。そのせいか統一的な構成には不満を残すものの、第一章の冒頭で展開される早朝の 神宮球場でのヌード撮影の場面には、妙に生々しい現実感を持ったスペクタクルとし てこの物語全体を貫く、大きなうねりを予感させるものがある。そしてそのうねりは 一瞬一瞬の閃光にも似た軽佻浮薄な現代風俗の様態を我々の前に詳かにしてくれる。 『太陽の季節』以来、石原氏の作品世界にとって〈風俗〉は殆どその滋養分になって いたと言える。考えてみればこれは驚くべき事であって、時代を捉える確かな批評精 神の証左とも言えるだろう。

クラブ経営者の良という男が主人公であるが、主人公と云っても彼は全編を通じて 登場する奇怪な前衛舞踏家、葛城東兵衛とポジとネガの関係にあり、東兵衛の前では ワキとなる。この影の主人公、東兵衛や第三章「饗宴」から登場する興行師の大影の モデルと思しき人物が実在するが、彼等を始め、この小説に多く登場する作家や写真 家と云った自由業の人間達は、大影の言う「虚業家」として尖鋭化した〈風俗〉を作 品の中に定着させる事に成功している。つまり作家が現代に何を視て、如何に書くか と云う難問に対して、石原氏は〈風俗〉の或る極限化された状態を設定し、凝縮して みせたに過ぎない。そしてその凝縮された美しい結晶が現代社会の病根を帰納しているのである。

この帰納法が成功した原因には恐らく石原氏が舞踏と云うものを持ち出し、〈肉 体〉を手掛かりに人間の蘇生を試みようとした事が挙げられるだろう。作品中の性 (セクス)の意味にしても『太陽の季節』『行為と死』に於けるそれと『化石の森』 と本書でそれが顕しく変化しているのも見逃せない事実だ。

良は仲間達と屢々マリファナ、LSDによる「トリップ」を行う。良は妻子と別居中 であり〈旅(トリップ)〉は家庭からの。そして「堂々巡り」からの脱出でもあった。 東兵衛の弟子のミキと云う踊子に良が魅かれて性交渉を持つが、「手に触れているす ぐ横のミキの感触が信じられない。」彼は「もっと確かに二人を繋ぐもの」として〈旅 (トリップ)〉を思い立ち、実際その後富士山の中腹での幻想的な性行為を通じて良 はミキと繋がれたと思うのだが、ミキは失踪してしまい、遂には死体となって良と再 会する。ここで注目すべき点は初めてミキと交った際に東兵衛の幻影が彼の前に立ち 塞がった事である。「感覚が法律だ」と言う東兵衛は舞踏を「肉体の陶酔の管理」と 定義して次のようにも言う。「人間の感覚も精神も、一度解体しようなんて思って見る間に、もう溶けてしまっているんだ。その上に薬でトリップして見ても、それは、 衛生博覧会、グロのグロだ。」こうして〈旅(トリップ)〉による幻想は舞踏による 肉体に打ち砕かれている。肉体と幻想が対峙していた時には、良や大影は東兵衛から 自由であるが、その均衡が崩れると二人は東兵衛から逃れられなくなり、彼の支配下 に置かれて行く。終章で東兵衛が見せる〈奇跡〉に何よりもそれがよく物語られてい て、ワキの東兵衛がシテに変化する経緯がドラマティックに描かれている。そして、 この結末では東兵衛が現代に蘇ったディオニュソスとして全世界に君臨し、我々に不 気味な視線を投げかけるのである。この小説は石原氏の信仰告白の書でもあり、紛れ もなく近年の問題作の一つである。(鬼悟)


※安部公房研究家の岩田英哉氏がブログでこの書評の紹介し、第7次「三田文学」編集部で一緒だった当時を回想している。→Abe Kobo's Place(安部公房の広場)


反日の正体とは、何か?


 日本人の中に歴史の嘘を見抜き、〈マトリックスとしての反日〉に対決し、打ち破り、そこから決別しようという人が増えてきたのは、日本の〈いまここ〉が、時代が大きく変わる分水嶺に差し掛かっているからである。東日本大震災を契機に、自虐史観の呪縛から解放された人も少なくない。戦後のシステム、戦後日本を作り上げてきた体制の〈嘘〉を見抜いた人が増えている。
 政権交代の挙句の果てが、統治能力に著しく欠如した民主党政権の醜態だったのだから当然である。その醜い姿を見れば、平成二十一年(二〇〇九)の総選挙でメディアに騙された人でも気づいているはずだ。
 東日本大震災は大地を引き裂き、海底の地殻変動と津波で日本人の日常を切り刻んだだけでなく、時代に大きな裂け目を作ったのだ。その裂け目から虚妄の戦後体制の姿が見えている。そうでなければ、石原慎太郎都知事の尖閣諸島を東京都が地権者から購入するというアイデアが、あれだけの支持を集めるわけはなかった。
 先に文庫化された『「反日」の構造』の文庫版まえがきで〈マトリックスとしての反日〉という概念をご説明したが、本書の解説にもそれは必要不可欠なものになっている。そして、ここで明確にしたいのは、〈マトリックスとしての反日〉の本当の正体は、捏造史観で永久に日本に謝罪と賠償を要求する韓国人でもなければ、覇権主義で日本侵略を虎視眈々と狙う支那人でもなく、また、日本の属国化を永久化したい米国でもないということである。〈マトリックス〉、つまり仮想現実としての〈反日の正体〉とは、それらの国や民族を唆[@ルビ・そそのか]して、反日の材料を供給している日本人に他ならないということである。
 本書『反日の正体』は平成十八年(二〇〇六)二月二十八日にPHP研究所から発売された『反日の超克』の文庫版である。先に文庫化された『反日の構造』の続編であるが、再読すると、前書同様、この六年間で何一つ重要な問題が解決されず、大きな危機が今なお一向に回避されていないことに驚かざるを得ない。と同時に、言論の無力、〈マトリックス〉の強固な壁の存在を再確認するしかなかった。
 六年前に上梓された本書の内容が全く古くなっていないことに、本書の価値を見出す読者もいるかも知れない。しかし、私は自分が書いたテーマが時事的な問題を超越する普遍性を持っているということより、むしろ言論の場である論壇、あるいはジャーナリズムの影響が矮小化したことと、言論そのもの無力さに虚しくなる。それだけ、日本人の言論が多くの日本人に届かないような情報封殺システムに私たちが絶えず脅かされていることにも気づくのだ。なお、文庫化にあたって、時制の統一などを加筆、訂正している。
(文庫版まえがきより)
詳細案内ページ→https://kohyu-nishimura.com/hannichinoshotai.html


幻の黄金時代 オンリーイエスタデイ’80s


「幻の黄金時代」とは、歴史上で日本が経済的に最も繁栄し、経済的、政治的な分野に留まらず、文化的にも日本の影響力が世界に波及して、日本人がわが世の春を謳歌した1980年代のことを指す。
そんな80年代(昭和55年~平成元年)のあらゆる事象を振り返り、文化的、歴史的、政治的、社会的脈絡の中から80年代の現代史と文化を描いたのが本書である。
なぜ、「黄金時代」が「幻」で終わったのか?
その20年~30年前の原因に、現在の日本が未曽有の混乱、衰退から脱出する鍵がある。
90年代以降の日本は、いわゆる「失われた10年」、あるいは、現在まで続く「失われた20年」を過ごしている。
その期間はそのまま冷戦崩壊後の20年に重なっていることが重要だ。
現在の私たちは、経済的にも、政治的にも、文化的にも、最も困難な時代を迎えている。
日本と日本人が今、最悪の状況に直面している遠因は、この80年代の「黄金時代」が「幻」で終わってしまったことにある。
本書は、東日本大震災、長期化するデフレ不況、民主党政権の無力などで危機に直面する日本に、再生と復興のヒントを示唆するものとなるだろう。
詳細案内ページ→https://kohyu-nishimura.com/only-yesterday-80s.html