『朝日新聞への論理的弔辞』

朝日新聞は、なぜ、そこまで日本を憎むのか。
メディア論の第一人者が満を持して放つ評論集。
朝日新聞がすでに喪われた存在であることをえぐり出し、証明する表題エッセイに加え、雑誌などに発表したメディア批評を厳選して収録。
平成日本の〈失われた30年〉の実態を、メディアを通して描く決定版、ついに発売。

《私たちの手で朝日新聞の葬儀を礼に則り、しっかり行わなければならない。そのためにも〈弔辞〉が必要とされる。日本に悪霊が取り憑いても日本人は禊(みそぎ)と祓(はら)えで憎悪(ヘイト)を無力化できるからである》(本書一章より)

私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦時中の一億玉砕思想に直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。
このやうな逆文化主義は、前にも言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。(三島由紀夫「文化防衛論」より)

《朝日新聞に弔辞を書く理由――まえがきに代えて》より

今の朝日新聞は、いったい何のために存在しているのだろうか。もし安倍晋三総理を倒すためだけに存在しているとしたら、すでにその前提ゆえに存在理由がなくなってしまう。簡単な話だ。平成二十四年(二〇一二)十二月二十六日に第二次安倍政権が誕生してすでに丸七年以上が経過したからだ。しかも一年の短命に終わった第一次安倍政権と通算すれば、八年以上安倍晋三は総理の座に就いている。
これは推測だが、安倍が政界入りした五年後の平成十年(一九九八)頃から、朝日は恐らくこの二十年以上で少なくとも六千回は記事に取り上げて、その中で明確に肯定的に評価したことは一度もなかったのではないか。何の役職もない若手議員だった頃からマークして攻撃を続けてきたはずだ。その理由は本書一章で詳(つまび)らかにするが、‥‥‥

《あとがき》より

そろそろ紙数が尽きるが、本書と第一章のタイトルの「論理的弔辞」という言葉は、ちょうど五十年前の高校時代に読んだ三島由紀夫と東大全共闘の討論を収めた『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』(新潮社)所収の三島由紀夫のエッセイ「砂漠の住民への論理的弔辞」から拝借したことを記しておく。今年は三島由紀夫が亡くなってちょうど五十年である。